誰もが自己中心的であることを自覚せよ

雑記

コロナ禍による自粛ムードが広まって、もうすぐ1年。

現実でもネット上でも、”自粛派 vs 反自粛派”の戦いが日々繰り広げられている。

立場が違えば意見が違うのは当たり前なので、どちらが正しいとか、そういった話をするつもりはない。

ここでは、両者の議論の中でしばしば登場する「自己中心的」「利他的」という概念について、私の考えを述べたい。

自己中心的とは

「自己中心的な人」と聞いて思い浮かべるのは、誰だろうか。

「お前のモノは俺のモノ 俺のモノは俺のモノ」
のセリフで有名なジャイアンは(映画などで稀に見せる勇敢な姿などの一面を除けば)、「自己中心的」だと考える人がほとんどではないだろうか。

  • 常に自分の欲求を満たすために行動していてる
  • 他人のことなど考えていない
  • 相手よりも自分

これが「自己中心的」のイメージだろう。

利他的とは

「自己中心的」の対義語として「利他的」がある。

「利他的な人」と聞いて思い浮かべるのは、誰だろうか。

お腹を空かせた子どもに「僕の顔をお食べ」と自分の顔を差し出すアンパンマンは、「利他的」なキャラクターの代表格と言える。

  • 困っている人がいたら見過ごせない
  • 自分が辛い思いをしてでも、他人に喜んでもらいたい
  • 自分よりも相手

これが「利他的」のイメージだろう。

利他的⊂自己中心的

自己中心的と利他的は、相反する概念なのだろうか。

私はそうは思わない。

利他的は、自己中心的の部分集合だと考える。

人は誰しも自己の欲求を満たすために行動している。

アンパンマンは、お腹がすいた子供を見捨てた時の心の痛みよりも、顔を引きちぎる痛みの方が小さいから、子どもに顔を分け与える。

子どもやパートナーに対して「君の為なら死ねる」と感じるのは、「君が死ぬことで私が受ける苦しみより、私自身が死ぬ苦しみの方が小さい」ということに他ならない。

利他的とされる言動の特徴である「自分よりも相手」というのは、相手を優先することで自分の欲求が満たされるというだけの話なのである。

そういう意味で、利他的な人も自己中心的な価値観で行動していると言えるだろう。

売名のための寄付に「偽善」という言葉が使われることがあるが、これもおかしな話だ。

匿名の寄付と、売名のための寄付の違いは何か。

困った人が救われることで自分が気持ちよくなるのか、自分の名前が売れて自分が気持ちよくなるのか、手段が違うだけで、「自分が気持ちよくなること」という目的に違いは無いだろう。結局どちらもオナニーだ。

手でしごくかオナホを使うか程度の差しか無い。

売名のための寄付が偽善なら、匿名の寄付も偽善である。

たまたまオーガズムに至る手段が他人の幸せである人間が、「利他的な人」と呼ばれているに過ぎない。

人は皆自己中心的に生きているのである。

自分を本心から利他的だと思っている人は厄介

冒頭の話題に戻る。

コロナ禍における「自粛派」が自粛をする理由としてよく聞くのは、

  • 自分が知らぬ間にウィルスを媒介し他人を感染・死亡させてしまうことを避けるため
  • 医療現場で働く方々を疲弊させないため

といったものだ。

これらは別に間違っていないし、そう思うのはもちろん自由だ。

ただ、これらの理由を以って「自分は本心から利他的である」と考えている人は厄介だ。

そういった人は時に「私は他人のために頑張っているのに、あの人は自分のことしか考えていない」と誤解し、利他的でない他人に対して攻撃的になるからだ。わかりやすい例が所謂「自粛警察」である。

自粛派は、自分が他人を殺してしまうこと・医療現場が疲弊してしまうことに対する重責よりも、自粛による制限の方がマシだから自粛していることを、理解しているだろうか。

(自分が)酒を飲んでワイワイやりたいから飲み会する人と、根本的には何も変わらないことを自覚すべきである。

利他的な「反自粛派」においても同じだ。

「経済を回さないと自殺者が増えるから自粛しない」というロジックには、自殺者が増えると自分が経済面・感情面などで不利益を受けるから、という目的が隠れていることを忘れてはならない。

「誰しも結局は自己の欲求を満たすために行動している」ことを理解していれば、思想の違いはさほど大きな問題を生み出さない。

利他的な人に求めること

それでは、利他的な人は無駄なのかと言えば、そんなことは無い。

他人の幸せで自分も幸せになれる人が増えた方が、社会全体の幸せ量は増える。

ただ、性癖がそう簡単に変えられないのと同じように、「明日から人の幸せを糧に生きてください」と言われても無理な話だ。

そこで重要なのが、利他的でない人に、利他的な行動のメリットを、感情論ではなくロジカルに説くことだ。

「私は飲み会がしたい。低確率で他人死のうが知ったことではない」と考える人に

「あなたのせいで誰かが亡くなってもいいの!?」と感情をぶつけるのは、無意味なことだ。

乳首が性感帯ではない人の乳首をいくら弄りまわしても、感じるどころか、鬱陶しいだけだろう。

今飲み会をすることで、貴方にどんなデメリットがあるのか。他人を死なせないことで、どんなメリットがあるのか。
それを論理的に説明しない限り、納得させることは出来ないだろう。

もちろん、逆もまた然りである。

最終的には法

著しく社会秩序の維持に反する手段で自己の欲求を満たす人が現れた時のために、人は法を作った。

殺人や性的暴行を抑止するために刑法が、交通違反を抑止するために道路交通法が存在するといった具合だ。

(個人的にあまり好きではないが)倫理・道徳・ルール・マナーなども同じ理由で存在する。

ただし、それが曖昧になればなるほど、納得する人の数は減るし、意見の衝突も起こりやすくなる。

わかりやすい例が、失礼クリエイターことマナー講師が作り出す意味不明なマナーの数々だ。

最終的には、曖昧さを出来る限り排除した法で、秩序を守るしかない。

おわりに

纏まりが無くなってしまったが、私が言いたいことは以下の3つ。

  1. 自己中心的でない人など存在しない。自分を本心から利他的だと思っている人は、その勘違いに気付くべき。
  2. 利他的でない人を攻撃しても仕方がない。利他的な人を増やしたいならば、相手の主張を理解しつつ、論理的に利他的言動のメリットを伝えよ。
  3. 利他的な言動を強制したい(利他的でない言動を排除したい)ならば、法で定めよ。

これらが満たされれば、コロナ禍の殺伐とした空気も、少しはマシになるのではないかと思う。

コメント

  1. ああああ より:

    自粛派の人間ですが、自粛否定の人に疑問があるので質問させて頂きます。
    前提として、仮定が多いのをご了承ください。
    しぇるさんは家庭を持っていますが、もしパートナーやお子さんが新型コロナウィルス感染症による重篤化により亡くなってしまった場合は、それは他の交通事故、病気によって亡くなった場合と悲しみの区別はつきますか?
    市中感染の場合ではなく、例えば同僚が感染リスクの高い場所(いわゆる三密)に行き無症状で感染者となったが、しぇるさんにうつり、パートナー、お子さんが重症化した場合、同僚に恨みは湧きますか?
    それでも自粛の必要はないとの考えは変わらないでしょうか。
    拙い文章ではありますが、Twitterでのツイートでも構いませんので、ご返答頂ければ幸いです。

    • shelfall より:

      コメントありがとうございます。
      始めに言っておきますが、私はやや反自粛寄りの思想であるものの、実生活では不要なトラブルを避けるため、マスク着用など自粛派寄りの行動をとっていることをお伝えしておきます。
      また、自粛の必要が全くないかどうかは今ある情報だけでは判断できない(感情論や一部の大きい声に引きずられて自粛ムードになっている)というのが正直なところです。
      例えば反自粛寄りの「大木提言」が取り沙汰されることも、有識者からの反論が無いことも不思議に思っています。

      その上でご質問に対する答えですが、まず家族や大切な人をコロナで亡くした場合に抱く感情が事故や病気の場合のそれと同じかどうかは、その場面になっていないためわかりません。
      事故や病気といっても、私に過失があったケースや救うことが出来たかもしれないケースで、抱く感情は異なるでしょう。
      また、私の同僚から感染した場合とありますが、そもそもそれを特定することは不可能なので、前提として成り立たないと考えます。
      感染していることが分かっている状態で、それを隠し私や家族に意図的に移そうとしたのであれば、傷害罪の要件を満たすため、行動に移すでしょう。