突然ですが問題です。
【ケース①】
街を歩いていると、赤の他人が人質に取られており、犯人があなたに「お前のスマホを俺に投げて渡せば人質を解放する、渡さなければ人質を殺す」と言っています。
あなたはスマホを渡しますか?
※スマホを渡す渡さないに関わらず、あなたの命は保証されているものとします
【ケース②】
スマホがボロボロで電池持ちも悪くなってきたので、ボーナスで15万円のスマホを買おうと思ってました。
しかしその15万円があればアフリカの貧しい病気の子供10人にワクチンを接種させて命を救うことができます(そうでなければ死にます)
あなたはスマホを買うのを諦めて寄付しますか?
※金額と人数は仮想のものです
もちろんこれらの問題に正解はありません。
X(Twitter)でアンケートを取ってみました。
街を歩いていると、赤の他人が人質に取られており、犯人があなたに「お前のスマホを俺に投げて渡せば人質を解放する、渡さなければ殺す」と言っています
— shelfall (@shelfall) January 4, 2024
スマホを投げ渡しますか?
※あなたの命は保証されているものとします
スマホがボロボロで電池持ちも悪くなってきたので、ボーナスで15万円のスマホを買おうと思ってました
— shelfall (@shelfall) January 4, 2024
しかしその15万円があればアフリカの貧しい病気の子供10人にワクチンを接種させて命を救うことができます(そうでなければ死にます)
スマホを諦めて寄付しますか?
※金額と人数は仮想のものです
解答者は私のフォロワーが中心なので偏りはあると思いますが、両ケースの回答傾向に大きな差が生まれています(ケース①ですら約半数は見捨てるというのは、予想外でしたが)
ちなみに私は記載以外の条件が無いならば、ケース①なら助け、ケース②なら助けないと思います。
両ケースもスマホと赤の他人の命を天秤にかけています。
むしろケース①はその場でスマホが無くなる上に情報流出などの懸念があり、ケース②より被る損失が大きく、それでいて救われる命はケース②の方が多いです。
にもかかわらず、自己の損失が大きく救える命が小さいケース①だけを救う人が多い理由は何でしょうか。
私が考える理由は「納得感」です。
ケース①は断れば目の前で人が死に、他者(社会)から非難される可能性があります。
ケース②は断るとどこか見えないところで人が死に、他者(社会)からも特に非難はされません。
目の前で自分が救える命を救わなかった場合、恨まれそう、毎晩思い出して苦しみそう、他者から叩かれそうといった感情が沸いてくることは想像に難く無く、「それならスマホくらい諦めて渡そう」となる人も少なくないのでしょう。要するに助ける理由に”納得”しているから助けるのです。
一方で救済対象が自分の目の前にはいない人だった場合、そういった感情はほとんど無く、人命より自分の物欲を優先しても良いと”納得”してしまうから助けないのだと思います。
「他人を助けるため」と言いつつも行動の原動力は「自分の納得感」に基づいているということです。
「助けないと自分が納得できないから、助ける」
「助けなくても自分が納得できるから、助けない」
私はこれを悪いことだとは思いません。当たり前です。
現実問題として個人が出来る救済手段は限られていますから、ケース②に心を揺さぶられていては日常生活もままならないですし、世界一の大富豪だって、望まない死に直面する全ての人を助けるだけの財産は無いでしょう。
あくまで人は「助けたいから助ける」「助けなくてもいいから助けない」を(意識/無意識問わず)判断している、ということが言いたいだけです。
そう言う意味で人は誰しも利己的であり、他者を救済するために代償として失っても納得できるモノの価値が高い人が、結果的に「利他的な人である」と扱われているのでしょう。
自分の命を省みず、線路に落ちた人を助ける人
火事の家に飛び込んで、逃げ遅れた人を助ける消防士
例えばこういった方々です。素直に尊敬します。
私の場合だと、自分の命を投げ出してでも助ける(=他者の命と引き換えに自分の命を納得して差し出せる)と断言できるのは妻と子だけ。親兄弟はどうだろう…断言はできないです。
友人知人なら、ある程度の財産や怪我はバーターにできるかな。
赤の他人なら、恨まれたり非難されるリスクがなければ、1円だって差し出さないと思います。
ちなみに冒頭の2つのケースについては以下のような反論(?)があるかもしれませんが、結局はいずれも「自分が納得できるか否かで判断している」ことに変わりはありません。
ケース①
・スマホが詐欺に使われて被害者が増えるかもしれない(から渡さない)
・スマホから個人情報が盗まれるかもしれない(から渡さない)
ケース②
・私が寄付しなくても誰かが助けてくれるかもしれない(から寄付しない)
※この逃げ道を塞ぐために「そうでなければ死にます」と書いたのですが
・ワクチンで救えたとして、その後飢餓や別の病気で死ぬかもしれない(から寄付しない)
・10人だけ助けたところで、まだ多数の貧しい子どもがいるから焼け石に水だ(から寄付しない)
ところで、こちらのツイートの引用やリプライを見てください
ぶっちゃけ「ペットの命>赤の他人の命」と考えるのはごく普通のことだと思う
— shelfall (@shelfall) January 4, 2024
実際言動に出さないだけで多くの人が思ってるんじゃない?
何ならペットどころかスマホや服だって赤の他人の命よりは大事だったりするでしょ
「ペットならまだしも人命よりスマホが大事なんて考えはあり得ない、おかしい」と言った反応を示す方が少なからずいらっしゃいます。私もリアルでそのようなことを言う人がいたら、一瞬「なんだこいつは」と思うかもしれません。
しかしながら、実際「スマホか他者の命か」というシーンに出くわした場合に、少なくない割合の人がスマホを選ぶケースはあるわけです(冒頭のケース①やケース②)
具体的なケースを書いていないのだからズルいだろ、と言われるかもしれませんが、その場合は「その程度のケースすら想像できないで綺麗ごと言ってたんですか?」と返したくなります。
もっと言えば、条件によっても判断は変わるでしょう。
スマホに生き別れの大切な人の写真が入っていたら?
たった今スマホから振込を行わなければ多大な損失を被ってしまうとしたら?
少なくとも私はある場面において「知らない人の命より自分のスマホの方が大事だ」と考える人を間違いだと決めつけ、批判することはできないです。
自分だって人命よりスマホを優先することがあるし、他人がそう判断する理由だって納得できる場合がありますから(さらに言えば私が納得できずともその人が納得しているならば否定はできないです)。
当たり前の話ですが、「普遍的かつ絶対的な正義」なんてものは存在しません。
だからこそ人は、最大多数の幸福を目指して道徳・常識・倫理観といった概念で出来る限り”納得感の判断基準”の共通認識化をはかります。
そしてそこから大きく外れた”納得感の判断基準”を持つ人を非難し、説得しようとします。
しかし上記のスマホの例でわかるように、実際の判断基準はファジーで、完全に共通認識化などできません。
そのため、法やルールで強制力を持たせ、納得の有無に寄らず断罪・排除することも行って社会秩序を維持しています。
なおボヤっとした”納得感の共通認識”すらも時代と共に移り変わっていきますから、それに合わせて法やルールもアップデートされます。
私が一番苦手なのは、自分の常識や倫理観が絶対のものだと疑わない人です。すなわち、”納得感の共通認識”のファジーさや移り変わりを認めない人。無邪気に「人命よりスマホが大事なんてあり得ない」と思った人は、その傾向があるかもしれません。そういった価値観や場面を想像できないのですから。
今の自分の価値観だけで物事の善悪を判断し、他者にもそれを強制する人、とも言えます。私はそういう人とは距離を置きます。
私は自分と異なる価値観・考えを持つ人の話を聞くのが大好きです。
もしかしたら自分のそれが変わるかもしれないし、変わらなくても知見が広がるからです。
今回の件で一層、その想いが強くなりました。
まとまりのない文章になってしまいましたが、頭の中にあるものを吐き出してみました。
ついでに、この記事を読んだ方が何かを考えるきっかけになれば幸いです。
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